稲永 寛 Hiroshi Inanaga

クンストフォート・ファイフハウゼン Kunstfort Vijfhuizen

パンフレットより [Kunstfort Vijfhuizen]

パンフレットより [Kunstfort Vijfhuizen]


ファイフハウゼンというアムステルダム市、スキポール空港、ハールレム市の近郊にあるのどかな村にあるアーチストインレジデンス施設。クンストフォート財団によって運営されており、施設は旧要塞を利用しています。ここは第1次大戦前に敵国(ドイツ)から首都アムステルダムを防衛するために建設された要塞のひとつ。アムステルダムを囲むように、このような基地がたくさんあります。クンストフォートの周りには、オランダらしく運河がたくさんあって、それらを堀として利用してさまざまな軍事設備の跡が残っています。実際にクンストフォートの周りは運河につながったお堀で囲まれています。周囲はとても田舎で、ファイフハウゼン=五件の家というくらいの地名なのですが、もともと軍事的に重要なところだったので、国がここに家を建てることを禁止していたそうです。しかし、ここはドイツ軍に無血占領されたそうです。
この施設は開設されてそんなに歴史は長くなく、約10年位です。メインキュレーターがおり、複数のボランティアによって管理されています。レジデンス以外にもスタジオは利用されており、オランダ人作家などにも貸出しをしている。年に3回ほど大きなインターナショナルな企画展を催しており、展示スペースはフォート内部(スタジオ、メインホール、映像シアター)、外、またこの財団が管理する大きな倉庫(これも旧軍事施設に付随)などでおこなわれる。また企画展レジデンスアーチストには制作費や渡航費の助成が財団より行われています。

クンストフォートを正面からみたところ。
車があるところから左側は高級レストランになっています。コロッケがおいしいです。ちなみにコロッケは多分オランダ語です。オランダ人はコロッケと発音していました。すごく高いので、めったに行けません。って言うか、対ユーロ為替が高すぎっ!1ユーロ=¥150
現地の人は1ユーロを100円感覚で使っています。
メインエントランスの前から
コンクリート壁の厚みは80センチ以上もあります。それぞれの入口の防弾用鉄板は1.2センチの厚みがあり、開閉にもとても重いです。ここはかなり建物や設備がクンストフォート財団によって修復されています。そのほかのフォート(要塞)にもいったのですが、荒れようはひどかったです。奥に見える出っ張ったところは現在オフィスになっていて、もともとは大型機関銃用の攻撃設備でした。内部に銃台が残っています。
私のスタジオの前
ドアや窓に丸い穴が開いていますが、これは裏(内側)から開閉が可能です。これらは銃撃用の穴です。
メインエントランス
お堀の外から見た風景
堀の中には一艘の小船が浮いています。
私のスタジオの入口
私のことが書いてあります。ここはたまに一般の方々にも開放しているので、こういう説明が貼られています。
スタジオ風景(窓側より撮影)
内部の部屋はシェルターになっていて、夏場でも寒いくらいです。毎日長袖を着て制作していました。ここは歴史的遺産なのでコンクリート壁に何かを打ち付けたり破損させることが禁止されているので、壁に埋め込まれている木を頼りに、モノを釘やビスで付けます。天井からフックが出ていますが、ランプを吊るすためのものです。
スタジオ風景(ドア側より撮影)
鉄板の窓の扉を開けると明るくなります。
こんな事も!
大雨が降ると屋上の排気口の周りに水が溜まって、滝みたいに雨漏りします。やはり軍事施設ですね。快適さへの追求は一切ないです。
内部の廊下
幅は90センチくらい。かなり狭く、暗いです。ずーっと奥までまっすぐです。画像の左側の壁がニッチになっていますが、これはランプを置く所だそうです。兵士の幽霊が出るとキュレーターの方が言っていました。オランダの幽霊は足があるのかなぁ?
ゲストルーム前の通路
一番手前の部屋を私が使用していました。自転車は、レジデンスのオランダ人作家のフランク・コニンクスさんのものです。サドルがとても硬くて、1時間も乗れないので、最後のほうは常に歩くようにしました。
ゲストルーム内部(外ドア側より撮影)
奥にシャワー・トイレルームがあります。オランダ語がわからないので、テレビはもっぱらBBCをみていました。たまに深夜、施設のメインブレーカのトラブルで停電します。セントラルボイラーが壊れて、3日間、超冷たい水シャワーを浴びました。
田舎なので夜は周りには全く灯火や音が無い闇です。
ゲストルーム内部(シャワールーム側より撮影)
きたなくしてますねー。結局オトコの一人部屋みたいになってしまいました。外と内の段差が無く、雨が降るとカーペットがちょっと湿るのが難点。
キッチン
レジデンス、スタジオを借りている作家達の憩いの場です。共用キッチンなので、整理整頓が基本。電子レンジが無かったのは残念!パソコンはOSがWin98のかなり古いので、スタジオにインターネットが来てない作家はここで自分のパソコンをLANにつないでやっていました。ちなみに私のスタジオにはネットが来ていたのですが、頼んでからつながるまで1ヶ月かかりました。っていうか業者は配線をハブにつないだだけなんですけど。一回目に業者が来たときは鍵を忘れたとかで帰ってしまいました。ったくオランダ時間です。
洗濯機と乾燥機
典型的な欧州型。はじめ全く使い方が判りませんでした。初めての洗濯の日は日曜日で誰も周りにいなくて、ネットでオランダ語で書かれたボタンの意味を翻訳したりして調べました。すべてプログラムで制御されているので、途中で解除するのがとても難しいです。しかも洗濯機は水を少ししか使わず、水は温められて出てきます。このプログラム洗濯が終わるまで2時間かかります。慣れれば非常に楽です。
クンストフォートから見た風景
時期は6月です。ちょうど夏に差し掛かる時期で緑がまぶしいくらい美しいです。
クンストフォートから見た風景
周りが堀に囲まれて土塁が築かれているのでちょっとした小高い散歩道です。オランダは国土のほとんどの地面が海面より低い国なので、丘や山、ましてや坂といったものがないので、ちょっとした地面の高いところが貴重です。
クンストフォートから見た風景
最近は都市が近いので宅地開発されています。
クンストフォートから見た風景
堀の外では羊や牛が放牧されています。
クンストフォートから見た風景
のどかな田園風景が広がっています。
クンストフォートの屋上から見た風景
ずーっと続く並木のたもとには砲台や兵士が隠れるところといった設備が残っています。並木の両サイドは運河になっています。
クンストフォートの屋上から見た風景
ちょうど夏至に近い時期で、撮影時間は23:09となっています。ヨーロッパの夏は昼が長いです
ファイフハウゼン
これはクンストフォートから最も近いバス停の案内です。左の方の矢印がファイフハウゼンです。バス路線のファイフハウゼンから下が”逆コの字”のようにになっていますが、ここにはアムステルダム国際空港(スキポール空港)があります。バス路線の上側終点はハールレムという都市です。画像右上あたりが首都アムステルダムでかなり近いです。
並木道
両側が運河になっています。オランダ語では、運河も大きさ規模によって運河の名前が変わるそうです。
並木道と運河
何キロもつづいています。
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
写真では運河はきれいに写っていますが、水はほとんど下流?に流れていないので、水底には泥が溜まってかなりき○ないです。結構においもしたりします。けれどたまにそこで泳いでいる人がいます。彼らに話を聞くと、「化学的な物資は無いから大丈夫だよ」といっていました。この人たちの数百年前の祖先が度重なる疫病に苦しんだという経験を忘れてしまったのだろうか。
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
跳橋があります。たまに無謀な若者が車でこの小さな跳橋を猛スピードで通ります。どこもおなじですね。
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
ファイフハウゼンからハールレムに向かう途中
ハールレムという都市は15万くらいの人口で、そんなに大きくないです。マンションなどが多く立ち並んでいますが、日本のように電柱が無いので、街がすっきりしてみえます。
ファイフハウゼンから近くのホームセンターに向かう途中
近くといってもホームセンターに向かうバスがないので、1時間は歩いてかかります。
ファイフハウゼン
新興住宅地
ファイフハウゼン
新興住宅地
ファイフハウゼン
新興住宅地
ファイフハウゼン
何かの工場
ファイフハウゼン
スーパーの前の教会
リートフェルト・シュナイダー邸
ユトレヒト市というアムステルダムから南へ電車で約40分くらいのところにあるサッカーやミッフィーの作者ディック・ブルナ氏の拠点で有名な都市にある、近代建築家リートフェルトのもっとも有名な代表作。(ユネスコ世界文化遺産)
この建物を見学するには事前に予約が必要です。ユトレヒト美術館に電話で予約をします。横に写っているおにいさんはガイドの方です。とてもきれいでわかりやすい英語で説明してくれます。日本語のガイドの方もいるそうです。(後で知りました)
1920年代の作品。当時の建築計画はブロック(区画)計画で進められ、はじめに家の両サイドの壁をまるで本立てのように建設することが主流でした。なのでこのシュナイダー邸も隣の家同様、壁がはじめにある状態でリートフェルトに設計以来がきたそうです。つまり隣の家とシュナイダー邸の建築年はほぼ同じです。当時の人はこんなへんてこなものができたから、オッタマめげたことでしょう。シュナイダーさんとは正確にはシュナイダー婦人で、旦那は弁護士で男性優位社会の典型的な人だったようです。旦那が亡くなり、婦人はとても精神的な”自由や解放”を求めて、旦那が残した遺産を利用して、リートフェルトに家の設計の依頼をします。中での写真撮影は禁止でお見せできないのですが、細かなリートフェルトの婦人・子供達への心遣いが伺えます。
しかしながら、この建物の前(画像より右側約5メートル)に、高速道路が建設されて景観を台無しにしています。(うるさい) この高速道路を挟んだ向かいには彼のもうひとつの代表作の共同住宅もあります。
またアムステルダムにはリートフェルトアカデミー(美大みたいなもの)があり、彼の作品を体感できます。


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